ども台湾在住のナカジマチカ(@nakazimachica)です。先日初めて馬祖へ遊びにいってきました。
台湾で初めて行く離島を訪れた際は毎回現地の様子やその時思ったことなどを本ブログに書き残しているので、今回も写真とともに旅を振り返ってみたいと思います。それではご覧ください。
目次
馬祖の概要
馬祖は台湾海峡上にある行政区分上では連江縣に属する諸島で、南竿、北竿、東莒、西莒、東引の5島、その他小島の島嶼から成ります。
面積は29.6平方キロメートル。人口は約13,000人(2021年5月時点)で住民のほとんどが南竿・北竿に集中しています。
台湾本島からは約211km離れていますが、中国大陸からは一番近いところで僅か約9kmと非常に近く、中華民国が実効統治する区域と中華人民共和国では最短距離の場所になっています。
かつて馬祖は、国共内戦の際に中国大陸が共産党に占拠されると、地理的位置関係から数十年間に渡り重要な軍事基地として位置づけられていました。
その後、1992年に戦時体制が解除、そして1994年には観光地として開放され、1996年には外国人も渡航できるようになりました。
馬祖現地の雰囲気
馬祖は亜熱帯海洋性気候に属し、大陸型気候である中国大陸に近いため、4月〜10月が日本の夏のようになる台湾本島とは完全に気候が異なります。
僕が訪れたのは5月頭でしたが、5月といえば台湾では日中は30度以上になる日が増え、夜中も半袖で過ごせることも多くなりますが、馬祖の5月頭は最高気温すら20度を下回ることもありました。
台湾本島より四季がはっきりしているので、季節ごとの気温は台湾ではなく日本をイメージした方が分かりやすいかもしれません。夏は暑く、冬はしっかり気温が下がり季節風も吹きつけます。
そのため台湾ではほとんど見ない、暖房機能もある空調が付いた宿泊施設もありました。
海洋島嶼と大陸の両方の特性を持っているので台湾本島とは異なる植物が生育しています。バラを軒先に植えている民家もちらほら見かけました。
馬祖では中国語(台湾華語)の他に「馬祖話」「平話」と呼ばれる福州語(或いは閩東語)の方言とされている言語が話されています。
台湾に住む僕が普段耳にする言語は主に中国語か台湾語なので、時々聞こえてくる馬祖に住む方々が話す言語は新鮮でした。
家屋は石造りが多く、建物の彩色は控えめな印象です。
馬祖に残る伝統建築は花崗岩で建てられ、形状は上から見ると正方形、海賊が多かった時代に彼らの侵入を防ぐため窓は高い位置に小さめに設置されています。
馬祖の旅行中はバイクを借りて移動しましたが、道路の勾配が激しく細い道も多いので、普段バイクに乗りなれていない人は注意が必要です。
訪れた観光地
今回馬祖を旅行した際に訪れた際に印象に残った観光地を紹介していきます。
こちらは元々馬祖の住民が海賊から身を隠すために利用されていた洞窟で、軍人が常駐するようになってからは軍事用に改装されたトンネル『八八坑道』です。
内部の温度が16-19℃に保たれていることもあり、現在は写真でも伝わるようにお酒の貯蔵庫になっています。
一歩足を踏み入れると内部ではアルコールの匂いが充満しているので、お酒を飲んでいないにも関わらず酔いそうになります。
南竿にある『鐵堡』。かつて重要な軍事拠点のひとつだった場所です。
戦時体制下では上部をコンクリートで覆い迷彩柄にして隠していたそうですが、今は改修を経て正式な観光スポットになっています。柵とトーチカに残った迷彩柄と岩礁、海の組み合わせが絶妙な美しさ。
媽祖は台湾でも信仰を集め親しまれている女神様ですが、馬祖の南竿にはその媽祖の巨像があります。高さは28.8m。
媽祖は宋の時代に実在した神通力を得ていたとされる女性で、海難にあった父を探しに船海に出て遭難し、その遺体が流れ着いた場所がこの馬祖だと伝承されています。
馬祖という地名の由来はもちろん媽祖様で、地名に神様と同じ名前をつけるのはタブーとされているため、媽祖→馬祖にしたと言われています。
日本の横浜中華街には分霊された媽祖廟がありますね。
こちらは小型戦艦を風や砲撃から守るために掘られたトンネル『北海坑道』。
3月〜11月の夜間には『藍眼淚』と呼ばれる自然現象を鑑賞するためのツアーも催行されています。
ライフジャケットを身に着けて真っ暗なトンネルをカヌーで進むのは話の種にもなるので一度は参加してみても良いと思います。
南竿の北端にあるカフェ『夫人咖啡』。連江縣の公式ハンドブックなどに載るくらいなのでメニューは少しお高めですが、古い建物の周辺に何年かけて収集したのか分からない道具が散りばめられ、非常にユニークな空間になっています。
高齢の優しい老闆娘と元軍用犬だったと言われているワンちゃん、猫十数匹(いるらしい)が出迎えてくれます。
さてここからは北竿エリア。写真は北竿を象徴する観光地『芹壁聚落』です。個人的に馬祖を訪れたら必ず行くべき場所のひとつだと思います。
海沿いの山腹に伝統的な建築が並ぶ壮観な光景が広がっています。これらの建物は民家だけでなく民宿やカフェ、レストランなどに改装されています。
北竿に滞在している時はこの芹壁聚落にある民宿に宿泊しました。
北竿は1日あれば有名な観光スポットは大体回ることができますが、個人的にはもし時間に余裕があれば、芹壁聚落にある民宿に併設されたテラスやカフェで、目前に広がる海岸を眺めながらゆっくり過ごす日を設けるのもおすすめです。
馬祖は閩東・閩北の文化圏に属するため、閩南文化の影響を大きく受けている台湾の廟とは異なるデザインの廟が各地で見られます。
写真は北竿にある黄色の外壁が可愛い『坂里境天后宮』。
このように色彩が鮮やかな他、『閩東式封火山牆』と呼ばれる尖った壁になっているのが特徴的です。
壁に魚の排水口が取り付けられているのも台湾では見ないデザインです。
こちらは北竿空港近くにある美食街と呼ばれていたエリア。
南竿は防疫対策の名残りからか僕が訪れた時(2022年5月)はテイクアウト限定のレストランも多かったですが、この辺りのレストランは観光客の受け入れも積極的な様子が見受けられたので、北竿滞在中はこの美食街を中心に馬祖の郷土料理などをいただきました。
馬祖の郷土料理
馬祖では台湾にはない馬祖特有の料理を楽しむことができます。今回の旅で食べた物の一部を紹介します。
上の写真は『老酒麵線』。馬祖の人は体調を整える時などに食べるそうです。
台湾の老酒と言えば金門を思い浮かべる方もいると思いますが馬祖もお酒づくりがさかんです。
馬祖ではその醸造の工程で生まれる酒粕『紅糟』が様々な料理に応用され、馬祖にあるレストランではその料理を堪能することができます。
ファミリーマートで売られていた老酒ラテ。おそらく馬祖地区限定。
紅糟を使ったチキンスープ『紅糟雞湯』。
馬祖では他にもチャーハンや鶏の唐揚げなど色々な料理で用いられ、赤い食べ物を楽しむことができます。
スープに浮かんでいる黄色のものは芋圓に似ていますが別物で『黃金餃(地瓜餃)』と言い、さつまいもと小麦粉を混ぜて作った馬祖の代表的な郷土スイーツです。
黃金餃はスープに入れたり、揚げたり、蒸したりとレストランによって色々な調理法で提供されています。
福州を起源とする麺料理『鼎邊糊』。主な原料は米で作った汁です。
こちらも麺料理で『炒魚麵』。過去に台南で太麺の魚麵を食べたことがありますが、馬祖で提供されている魚麵は基本的に平麺です。海鮮ダシが効いています。
馬祖ではムール貝の養殖も行われています。中国語では淡菜。個人的に久しぶりに食べました。
『繼光餅』と呼ばれるベーグルのような形状の食べ物。少し硬めの食感でプレーンのものは無味に近いです。
元々は軍人のための保存食で、中央に穴が空いているのは明朝の時代にこのパネルのように縄を通し身体に下げて持ち運びをしていたと言われてます。
現代ではハンバーガーに挟むような具を入れるなど食べ方が多元化し、馬祖漢堡(馬祖バーガー)として各レストランで食べることができます。
『潤飯米時(米へんに時)』、馬祖では中元節の時にこの潤飯米時を食べます。おはぎに近いですが、下に敷かれている黃槿葉(桃葉樹葉を使用する場合もある)が独特な風味を加えてくれます。
後ろにある球体は『苞當米時』と言い、馬祖人は結婚する時や冠婚葬祭などの時に食べるようです。
観光化された戦地
訪れた観光地でもいくつか紹介したように、馬祖は長らく戦時体制化に置かれていたため各地に軍事施設が残されていて、鐵堡や北海坑道のように観光客がその一部に触れることもできます。これも馬祖ならではの魅力のひとつでしょう。
軍事施設が島の風景に溶け込んでいます。
道路や町中では軍人や兵役に就いている若者とすれ違うことが多いです。時々砲撃演習などの音が聞こえてくることもあります。
金門島を訪れた時も各所で見かけた愛国スローガン。馬祖では大きなサイズのものもよく見かけます。
僕も南竿滞在時には宿泊したのですが、かつて軍事施設として利用されていた建物を改装したホステルがいくつかあります。
台湾の各地を走るバス台灣好行。馬祖ではなんと迷彩柄が採用されていました。
こちらは北竿の芹壁歩道の辺りで見かけた、砲弾を利用したロープ柵。
そういえば金門では中国人民解放軍から打ち込まれた砲弾を原料にした作った金門菜刀(金門包丁)も販売されていましたね。
最後に
以上、馬祖旅行の振り返りでした。
馬祖にはまだ訪れていない島もあり、台湾とは異なる文化も多々見られるので、帰ってきてからすぐ「また行こう」と思いました。
台湾から比較的気軽に行ける場所で、台湾とは異なる文化圏に触れてみたい方におすすめの観光地だと思います。
ナカジマチカ / nakazimachica
神奈川県出身。日本で会社員として約7年間働いた後に独立し、中国語を学ぶための台湾語学留学を経てそのまま台湾移住。現在は台中市を拠点にWebコンテンツ制作の個人事業主として生活中。